弘前市立百石町展示館(弘前市百石町)で2月27日、講演会「茶太樓(ちゃたろう)新聞が描いた和徳町界隈(かいわい)」が行われた。
市民グループ「和徳歴史探偵団」が主催したパネル展「和徳アーカイブ」内で開催された同講演。和徳アーカイブは、和徳町の写真や古地図など約50点の資料を展示し、古い街並みや祭りの様子を振り返ってもらおうという企画。和徳町以外の人も多く訪れた。
講演会で取り上げた「茶太樓新聞」は、1920(大正9)年~1940(昭和15)年に弘前で発行。東奥日報社報道部長の外崎英明さんによると、街の暴露記事や芸者の紙上人気投票、社会風刺記事を多く掲載していたという。近代文学研究家の間では、小説家・太宰治が旧制弘前高校時代に「衆二」のペンネームで短歌を掲載したことでも知られている。
講演では1931(昭和6)年に7回にわたって連載された「和徳町を解剖す」を紹介した。「暴言多謝」と前置きした上で、「エログロナン(エロ、グロテスク、ナンセンス)の町」と評した一方で「弘前の経済界の心臓部」といった当時の街の様子を克明に描いていたという。外崎さんは「和徳町内でも分断はあったが、町外の問題となると団結して共同戦線を張ったという話は今にも通じるものがあるのでは」と話す。
「茶太樓新聞」の発行者・古木名均(こきなひとし)は元新聞記者で、弘前公園で花見を始めた「呑気倶楽部」の中心人物でもあった。1918(大正7)年から始まる弘前さくらまつりの前身「観桜会」の先駆けとなったという。外崎さんは記者活動とは別に古木名や「茶太樓新聞」の研究活動を続け、「こういった形で世に出ることは初めてかもしれない」と話す。
「茶太樓新聞」について、「当時の弘前で発行した新聞ではあるが、日本の世相を解明する上では一級の価値があり、中央や地方との情報伝播や世界情勢をも反映した記録にもなる」と外崎さん。「欠号が多く、戦前ということもあり、すでにないものもある。倉庫やタンスなどに眠っているかもしれないので、もしあったら歴史的資料として残してほしい」とも。