弘前で93歳まで現役医師が永眠 学校保健に尽力、晩年は国際交流も

城東小学校の校医を辞める際に子どもたちから贈られた切り絵

城東小学校の校医を辞める際に子どもたちから贈られた切り絵

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 弘前在住、元医師で文筆家の小野淳信さんが6月28日未明、直腸がんのため亡くなった。享年103。

小野淳信さん(2013年3月撮影)

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 小野さんは1912(大正元)年、福島県棚倉町生まれ。北海道大学医学部卒業後、軍医として中国大陸に出征し、32歳で終戦を迎える。終戦後、帰国して地元・棚倉保健所で勤務するが軍歴から公職追放され、妻の故郷である青森に移住。無医だった青森県下北郡旧田名部町に診療所を開業する。

 1952(昭和27)年には公職追放の指定が解除され、1954(昭和29)年に弘前保健所所長に就任した小野さん。「医師の本命は予防医学にある」という理想実現のため職務に当たったが、食品や環境衛生の監視や許可といった日々の業務に疑問を抱き、2年後には勤務医に転身。1960(昭和35)年に小野医院(撫牛子)を開業する。

 診療医としては93歳まで現役を貫き、弘前市シルバー卍賞や日本医師会功労賞などの賞を受賞。晩年は趣味の8ミリフィルム収集や鉄道模型などに力を入れ、弘前大学の留学生たちと積極的に交流し、学校保健活動などを伝えた。1999年12月15日付の朝日新聞「天声人語」に紹介されたこともある。

 弘前大学大学院医学研究科長の中路重之教授は「津軽のシュバイツァー」と例え小野さんの死を悼む。「予防医学という点で自分の活動と共通する。現在、学校保健の必要性を痛感しているが、小野先生は早くから学校保健に力を入れた国内でも貴重な方だった」と話す。

 長男の誠昭さんは「父はまさにロマンチスト。戦後の日本がまだ貧しい時代に、自分の血を患者に輸血したり、治療費や診察代をもらわなかったりするような人だった。多趣味で常に興味が広く、100歳を超えてもパソコンで情報を収集し、メールもしていた」と振り返る。

 葬儀は7月5日11時から。会場は高谷萬花堂八幡町ホール(弘前市八幡町、TEL 0172-37-0041)。

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